若紫は一本で十分—教材を足すほど、本質は薄まる

※この記事は、note で公開した記事の転載です。元記事:https://note.com/naomistyle/n/n36f083482efe

✿ この記事のハイライト

若手の先生から相談されたのは、源氏物語・若紫の教材化でした。
複雑で多面的な世界を生徒に味わわせたい。
そのために非連続テキストや絵巻を足す案に対して、私が返したのは「若紫一本で十分です」という答えです。
いろいろな絵の具を混ぜれば、濁った色になるだけ。
複雑で多面的な世界は、若紫の原文の中にすでにたっぷり詰まっています。
光源氏の行動には敬語が使われているのに、涙が落ちる場面だけ敬語が消えるのはなぜか。
「なぜ光源氏は泣いたのか」という一点から、授業は立ち上がります。
古典不要論が再燃していると聞くたびに感じる、不思議で不思議でたまらない気持ちも、あわせて書きました。

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生徒の認識そのものを変えたい

先日、国語教育の研究会「広島水脈の会」の報告会で、若手の先生から源氏物語・若紫の教材化について相談を受けました。

その先生は、今の生徒たちがSNSやインターネットの情報に浸っているために、複雑で多面的な世界を捉えにくくなっているのではないかと考えておられました。
だからこそ、生徒の認識そのものを変えたいという願いがあります。
担当は古典探究で、生徒は県内でも学力上位層です。
選ばれたのは、多面的な情報を擦り合わせながら考えなければならない、骨太で壮大な源氏物語でした。

色々な絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜてしまうと

構想は、紫の上という人物を物語全体を横断して捉え直し、人物像を立体的にするというものです。
案は三つありました。
若紫と、大人になってからの死の場面を比較する案。
紫の上にまつわる文章を非連続テキストとして読み合わせる案。
源氏物語絵巻の場面と原文を読み合わせる案です。
どれも面白いと思いましたが、それぞれ気になるところがありました。

一つ目について。
紫の上の心情は、長い物語の中で非常に複雑に動きます。
明石に退いた光源氏を思い続けた時期があり、復帰後は明石の君との確執も生まれ、女三の宮の降嫁によって心が揺れ動き、やがて冷えていきます。
この長い変化を、幼い頃と死の場面だけで比べても、内容が薄くなって空回りするのではないかと思いました。

二つ目の、現代語訳やドラマ化作品などを付き合わせる案は、どうしても教材がごった煮になります。
色々なカラーの絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜてしまうと、濁った色になってしまう。そんなイメージです。
いろんな描き手がそれぞれに描いたものを、生徒がどう焦点化し、どう考察するのかという問題も残ります。

三つ目の絵巻も、原文を読んだ鑑賞者が自分の解釈で描いたものだと私は考えているので、同じごった煮の話に通じてしまい、いまいちピンときませんでした。

結論から言うと、若紫一本で十分に成立する

では私ならどうするか。
結論から言うと、若紫一本で十分に成立すると考えています。

先生が課題にしておられた複雑で多面的な世界は、若紫の原文の中にすでにたっぷり詰まっているからです。

桐壺の巻の冒頭からして、深く厚みのある文章です。
言葉の一つ一つが背景にいろいろなものを背負って紡ぎ出されていて、さらっと分析しただけでは見落とすことが、これでもかというほど圧縮されています。
ブラックホールに吸い込まれるような深みがあり、冒頭を読むだけでも本当に骨が折れます。しかも、読むのは高校二年生です。

若紫は比較的動きがあり、視点も変わるので楽しめる作りですが、そこに至るまでの話がわからなければ捉えにくく、登場人物も多い。

私は補助教材として漫画『あさきゆめみし』を部分的に使い、自作のあらすじ確認ボードで、毎回の授業の冒頭に3分ほど、質問しながらあらすじを確かめていました。連続アニメが冒頭で前回のおさらいをするのと同じ感じです。

ここまで手間をかける以上、よほど力量のある生徒でない限り、他の文章と読み比べる余裕は正直なところありませんでした。

涙が落ちる場面、敬語がない

若紫は、名詞や形容詞はもちろん、副助詞や助動詞に至るまで、一つ一つの言葉が含みを持っています。
読み解くほどに、物語世界が高い解像度でキラキラと浮かび上がってくる文章だと思うんですよね。

中でも圧巻なのが、入れ子構造とか額縁構造と呼ばれる語りの構造です。
語り手が描写しているうちに、いつの間にか光源氏への視点と描写がすり替わり、また書き手と入れ替わり立ち替わりしていく。
その切り替わりが敬語の有無で判断できるところが、とても深いなと思います。
光源氏の行動には普通敬語が使われていますが、涙が落ちる場面は、光源氏の行動なのに敬語がありません。
作者はわざとそこだけ敬語を使わず、読み手を光源氏の心情にどんどん近づけていくのだと思います。

生徒から問いを集めていけば、「なぜ光源氏は泣いたのか」という問いが必ず出てきます。
原文の「涙ぞ落つる」この一点だけで、教材の問いとしても探究的な問いとしても十分に成り立ちます。

そこから作者との対話、登場人物との対話が生まれ、生徒の心の中に物語世界が幾重にも重なって形作られていく。

インターネットやSNSとは全く違う、深くて重みのある、複雑で多面的な人間を体現した世界です。

学ぶことに「不要」という判断はありえない

この勉強会には中古文学に明るい大学の先生や、世羅博昭先生もいらっしゃいました。
助言が続く中、私は時間切れで別の会へ移るため、途中で退席しました。

最近、古典不要論が再燃していると聞きます。
これが、ほんまに不思議で不思議でたまりません。
どなたがどの立場でおっしゃっているのかはわかりませんが、学ぶことに不要という判断をするのはありえないと思いますし、むしろ学ぶことに対して失礼ではないでしょうか。

源氏物語は、同時代の世界でも最もレベルの高い小説だと評価されている作品です。

そんな古典を持つ日本で、なぜ必要とか不要とかで切ってしまうのか、私には全く理解できません。

不要論が出るたびに、そこに時間をかける必要はないと感じています。

今回改めて、自分の読みの力をもっと上げなければと思いました。

年を重ねて初めて見えてくるものがあり、源氏物語は果てしのない世界です。

皆さんは若紫や古典の教材化で、どんな工夫をされ、どんなことに悩んでおられるでしょうか。

※この記事はClaudeをアシスタントとして使用しました。

#古典教育 #国語教育 #教材研究 #源氏物語 #若紫

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