✿ この記事で分かること
- 「めあて」に書かれない「価値目標」とは何か
- 技能目標・態度目標・価値目標の三階建て
- 指導案で価値目標がぼやける三つの理由(竜田徹先生の論文から)
- 「情緒的」と受け取られたことへの違和感

「今日のめあて」は、いまや当たり前の光景です。けれども、めあてに書かれるのは「何ができるようになるか」であって、「できるようになって、この子にどうなってほしいか」ではありません。
「めあて」の奥にあるもの
前回の配信では、Xのフォロワーさんからいただいた「めあて神話」という言葉を切り口に、当たり前になっためあて提示の落とし穴についてお話ししました。今日はその続きです。佐賀大学の竜田徹先生の論文をベースにしていますが、学術的な言葉はできるだけほどいて、現場の先生に届く形で語ってみたいと思います。
めあてというのは、結局のところ「今日は何ができるようになるか」を書いて明確にするものです。けれども本当に大事なのは、その奥にあるものではないでしょうか。それができるようになって、この子にどうなってほしいのか。私はそこがいちばん大事だと思っています。
竜田先生の論文では、これが「価値目標」と呼ばれています。固い言葉ですが、柔らかく言い直せば「この授業を通して、この子にどんな人になってほしいか」ということです。
態度・技能・価値の三階建て
授業の目標には、次の三つが常にセットになっている。これは輿水実先生の理論だと理解しています。
| 態度目標 | やる気や興味、そして将来にわたっての構え(やる気のスイッチ) |
|---|---|
| 技能目標 | できるようになること(身につける力) |
| 価値目標 | 何のためにやるのか(その力を何のために使ってほしいか) |
さらに難波博孝先生は、この三つの関係を、まず態度目標があり、それを土台に技能目標が達成され、最終的に価値目標へ向かっていく、という順序で整理されています。三階建ての建物のようなものだと考えると、腑に落ちます。
態度がなければ授業は始まりません。技能だけでは「それが何になるの」で終わってしまいます。価値があって初めて、授業が生きてくるのだと思います。
書かれていなくても、価値目標は漂っている
ところが実際の指導案には、価値目標という欄がほとんど見当たりません。私は大学でそう習ったので必ず書くのですが、他の先生方の指導案や、他校で見せていただく指導案に、その欄はないのです。
とはいえ、先生方は価値目標を持っていないわけではないはずです。書いていようがいまいが、価値目標は授業に漂っていて、隠れたカリキュラムとして存在している。これが竜田先生のご指摘です。だからこそ、自分はこの授業で何を大切にしているのかを、自覚的に振り返ってみる必要があるのではないか。そう問いかけられているように感じました。
価値目標がぼやける三つの理由
竜田先生は、実際の指導案を数多く調べたうえで、現場の「あるある」を三つ整理しておられます。
| 1. 指導案の書き方がばらばら | ねらい、めあて、指導目標、学習課題。学校や自治体によって呼び方も書き方も違う。その一方で、自治体がテンプレートを配ることで、今度は画一化と形骸化が進んでいく |
|---|---|
| 2.「何のために」が埋もれる | 国語を「読む・聞く・話す・書く」の四領域で鍛える教科として捉える見方が強くなるほど、何のための授業かは書かれにくくなる。コンピテンシー重視でさらに強まっている。活動のねらいと身につけさせる能力を一文にまとめる形式も、「何のために」を目立たなくしている |
| 3. 数字に引っ張られる | 指導と評価の一体化で、学力調査やテストの結果が重視される。指導案に点数や達成度が書き込まれ、この子の生活、学級の状況、認識の変革といったものがはじかれてしまう |
「登場人物の心情を、表現を手がかりに読み取ろう」といった、前回の配信でお話ししためあての形式そのものが、どんな価値を生徒に得させたいのかを見えにくくしているのです。
願いが書けない書式:川本先生の実践
竜田先生の論文で紹介されている、川本先生という方の実践を少しだけご紹介します。
そのクラスには、発達障害があり、自分でもどうしようもなく学級を混乱させてしまう子がいたそうです。川本先生の願いは、その子に向けられる周りの子どもたちのまなざしを、もっと受け入れる方向へ変えたいというものでした。その願いを込めて、一つの物語教材を選び、授業を組み立てられたのです。
ところが、指導案の児童観の欄には、その生々しい学級の実態や願いは書けませんでした。書くよう求められたのは、地域で実施されているテストの点数とアンケートの結果だったといいます。
目の前の子どもたちを見て考えた授業なのに、指導案にはそれがまったく反映されない。それなら点数を上げるための授業をした方が楽ではないか。先生自身がそういう気持ちに追い込まれてしまう危うさがある、というお話でした。
これは川本先生おひとりの話ではなく、多くの現場で起きている構造的なジレンマだと私は思います。
私自身の学会発表を振り返って
先日の学会で発表した実践にも、同じ構造がありました。現代社会を生きる生徒が、行き過ぎた能力主義の中での葛藤や、古い価値観と新しい価値観の矛盾を抱えながら、どう自分の自由を保障していくのかを考えてほしい。それが私の願いであり、価値目標でした。
ところがちまたによくある実践案では、めあてとして前面に出てきたのは「比較して読む」のような、比較して読むことで思考力を高める、という技能目標です。目標は価値目標をメインに考えたいのに、めあては技能目標に焦点化されてしまう。おそらく指導と評価の一体化という方針が背景にあるのでしょう。けれどもその奥底には、価値目標が必ずあるはずです。
学会の質疑応答では、竜田先生と難波先生の論文、そして川本先生の実践例を挙げながら、その考えをお話しすることができました。
「情緒的」と言われた驚き
以前、若手の先生とこのことについて話したことがあります。私が価値目標という考え方をお伝えすると、その先生は「そういう情緒的な取り組みを自分もしてみたい」とおっしゃいました。
情緒的、という受け取り方をされたことに、正直かなり驚きました。私の中では、教育の本質に関わる話をしているつもりだったからです。
誤解のないように書いておきたいのですが、若い先生方の勉強ぶりには、いつも頭が下がります。読解方略、読者論といった新しい考え方を積極的に学んでおられて、私の方が教えていただくことの多い場面がいくつもあります。だからこそ、なのです。
教育の本質、つまり人間形成に関わる部分であるはずの価値目標が、「情緒的」という一言で脇に置かれてしまう。そのことに、私は強い違和感を覚えました。
これは、その先生個人の理解不足の話ではないと思います。価値目標を語るための言葉そのものが、現場から失われつつあるのではないか。そう考えた方が、事の大きさに見合っている気がします。
私は大学時代に輿水実先生の理論を学び、それ以来、指導案を立てるときには技能目標・価値目標・態度目標の三つを必ず通すことにしています。現行の学習指導要領を読んでも、この三つは整理されているのだから何も変わっていないではないか、と思うのです。それなのに、最近拝見する指導案では技能目標が最上位に置かれていることが非常に多い。
先人が積み上げてきた理論の整理や、大村はま先生の実践は、どこへ行ってしまったのでしょうか。古い人間だから、いつまでも古い実践や古い理論を見直そうとしてしまうのかもしれません。これは、ベテランとしての私自身の悩みに直結する問題でもあります。
✿ まとめ
- めあては「何ができるようになるか」。その奥の「この子にどうなってほしいか」が価値目標
- 態度目標を土台に技能目標を達成し、価値目標へ向かう三階建て
- 書き方のばらつき、四領域の枠組み、数値への偏りが、価値目標をぼやけさせる
- 書かれていなくても価値目標は授業に漂っている。だからこそ一度言葉にしてみたい
皆さんは、価値目標というものを考えたことがあるでしょうか。ご感想やご意見をいただけたら嬉しいです。
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※この記事はClaudeをアシスタントとして使用しました。
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