読解方略を身につけた先に、どんな人間になってほしいのか。

※この記事は、note で公開した記事の転載です。元記事:https://note.com/naomistyle/n/n900abc7a1e0f

▼ハイライト
昨日参加したオンライン研修会での、ちょっとした「できごと」について書きます。

実践発表のあとの質問コーナーで、私が「学習指導目標は何だったんですか」と尋ねました。老婆心ながら、いつも心に引っかかっていることを聞いてしまった。

その後のブレイクアウトルームで、目標の二重構造化論、価値目標・技能目標・態度目標という話に発展し、読解方略は無限にあるのではないかという迷い、読解方略=技を身につけることそのものが目標になってしまうことへの違和感まで、話は思いがけず深まっていきました。

今回はまとまった結論はありません。むしろ、まとまらないまま考え続けている途中経過を、そのまま書き留めておきたいと思います。

長文です。7000字以上ありますので、ご注意ください(汗

老婆心ながら、聞いてしまった

昨日、オンラインの研修会に参加しました。

んばさんという実践者の方が、日頃行っている読解方略の実践を具体的に紹介してくださり、続いて脾臓さんという実践者の方が、読解方略を「機能」で分類して整理し、活用しやすい形にしてみたという提案をしてくださいました。

非常に先進的かつ精力的な取り組みで、しかも地道に積み上げてきたことがうかがえる精緻な実践報告でした。すごいなあ~

その全体発表後の質問コーナーで、私は手を挙げて質問をしました。

こういう身近な先生同士の、気軽な実践発表の場では、みなさんお忙しいこともあって、日頃の実践を手早くまとめて、説明で補足するような、簡略化した提案が多いと思うんです。

それ自体は、お手軽に実践を交換し合う方向として、過重負担を減らしつつ実践研究の役割も果たせるので、私はとても賛成です。

ただ、いかんせん、(学習)指導目標が提示されないまま実践発表が行われる場面が、本当にただただ多い。

オンラインでもリアルのちょっとしたイベントでも、そうなんです。

実践がどんな生徒をどう捉えて、だからこういう目標にした、その目標に従って授業を組み立てたらこういうところがうまくいった、狙い通りだった——そういう検証や考察がしやすいはずなのに、目標が明示されないまま提案がなされると、結局、協議も要点を捉えきれないまま、なんとなくもやもやしたまま終わってしまうパターンが多い気がしています。

なので私は、老婆心ながら、お二人に「何が学習指導目標だったんですか」とお尋ねしました。

返ってきたのは、「学習指導要領の何々です」という答え。

私は「あ、わかりました。ありがとうございます。」と一応答えて終了。

ブレイクアウトルームに移行しました。

ブレイクアウトルームで、しょうがなしに喋る羽目に

その後、3つのブレイクアウトルームに分かれて協議したんですが、私が全体の場で出した質問の真意を、いきなりにくきゅうさんという方に聞かれました。

この方、非常にクレバーでキレキレなんですけど、それをユーモアたっぷりの話でうまくカムフラージュする、いわば「策士中の策士」みたいな方でして。

「黒瀬先生のあの質問はどういう真意なんですか。目標の二重構造化論に関連することじゃないですか。」と言い当てられてしまいました。

しょうがなしに、私は最近note記事にも書いた「価値目標」の話をすることになりました。

大学で国語教育学基礎論を習ったとき、いろんな国語教育理論の先生の概論を講義していただいたんですが、その中で輿水実先生という先生が、学習指導目標の立て方には「価値目標」「技能目標」「態度目標」があると提唱されていたことを学びました。(参考記事を貼り付けます。)

▶ https://note.com/naomistyle/n/nf2abb528ac59

それで、佐賀大学の竜田徹先生という方は、この「価値目標」が今あまり問われなくなってきている、とおっしゃっています。

価値目標というのは、竜田先生いわく「隠れたカリキュラム」——この子にどういう生徒になってほしいか、生徒の認識の深化・拡充を狙いとする目標設定のことです。

私が疑問に思ったのは、あの実践は、生徒に技を習得させることそのものが目標だったのか、それとも技を習得させることを通して、生徒のものの見方・考え方・捉え方の深化を目指すことが目標だったのか、ということ。

この話をしたら、リュシスさんというまたクレバーな方が、早速検索して情報を集めて、話の核心に迫るようなことをどんどん言ってくださって、非常に熱いブレイクアウトルームになってしまいました。

「協調性」を大事にしてきたはずなのに

私はあちこちの研修会に参加して実践提案を拝聴するとき、学習指導目標が目標の二重構造化論に則っていない実践を見かけて、協議の場で質問することがよくありました。

すると会場がドン引きするという状態が数多くありました。

私は一応、自分では協調性があると思っている方なので、あまり場を乱しては(協調性を大切にする姿勢を一応保っているつもりの私としては)非常によくないことだ、これ以上、あまりにも身勝手な発言で、自分だけのものの見方でがっつり言うのは控えようと決意して、あまり言わなくなっていました。

ところが、今回、学習指導目標は何だったんですかと全体の場で聞いたことについて、「これは何かあるんじゃないか」と、にくきゅうさんが鋭く見抜いて、ブレイクアウトルームで問いただされたところから、しょうがなしに私が話す羽目になってしまった、というわけです。

結局のところ、生徒が読解方略=ワザを身につけて、そのワザを使うことが目標として受け取られるような気がしたので、そこに引っかかりを感じたのです。

でも本来、学習指導要領には、生徒の主体性を喚起させ、生徒は知識や技能を用いながら、思考し、表現することを通して、学び続ける主体的な態度を養っていく、という三本柱があるはずですよね。

おまけに、探究的な学びも謳われている。探究というのは、自分が気づいたり興味関心を持ったりしたことから問いを立てて、不思議に思ったことに課題意識を抱き、調査研究して解決を図る過程で、様々なものの見方・考え方を働かせて問題解決に向かっていく、課題発見解決学習のことです。

現行の学習指導要領ではそれが謳われているのに、結局は技を習得することが目的になっているのだとすれば、それは知識・理解止まりで終わっているわけで、まさか、そうじゃないだろうな、だったらほかに目標設定しているはずだと私は思ったんです。

お二人ともそこは確実に実践されていると思いますし、書かれていなくても、生徒に真摯に向き合い、成長を願い、目指しておられると思っています。

今回は学習指導要領の文言で答えられていたので、その真意を尋ねたい。そこが気になったわけです。

これを全体会でにくきゅうさんが返したところ、こざ先生という方が、私と似たような問題意識を持っておられました。

生徒のものの見方・考え方を変えていく、深化させていく、それが仲間との他者理解につながる——そこが土台にないと「教育」というところにつながらないんじゃないか、というお話をされていて、あ、これは私と考え方がちょっと繋がり合っているところがあるな、と感じました。

他の方がどう思われたかはわからないんですが、消化しきれなかったり、目標の設定について理解が追いつかないような書き込みをされている方もいましたかね。

まあ、いきなり価値目標・技能目標・態度目標なんて理論を言われても、雲を掴むような話だったと思います。

でも、波紋を投げかけた——これは根底から考えないといけない、授業の構想として非常に大事な着眼点・土台なんじゃないか、ということは、みなさんなんとなく感じられたのかな、という雰囲気でした。

読解方略は、無限にあるんじゃないか

んばさんも脾臓さんも、読解方略について本当に勉強されている方たちです。

私はどちらかというと、この3~4年くらい、方略を気にしながら授業をするようになってはきたけれど、生徒と対話しながら思考を深めることを優先してしまい、方略が、あまり前景化しにくい感じでした。

私が一番紐付けやすいのは、たとえば授業中にハッとさせるようなクリティカルな意見が出たり、みんなで対話してすごく深まった結論になったときに、「じゃあこれって、なんで深まったんだろう」と生徒に投げかけた時、生徒が答えてくるものが、読解方略=技だった、というパターンの方が、自分としてはすごく腑に落ちるんです。

そういうところで技、つまり読解方略というものを位置づけてきた人間ではあるんですが、この教材に読解方略がどれほど使われているかという分析を綿密にしないまま、読みが深まるポイント、ポイントでしか読解方略を押さえてないタイプでもあります。

それを考えたら、読解方略って無限にあるんじゃないかと思い始めているんですよね。

いろんな先生がいろんなところで方略に名前をつけていて、それが重なっていたり、全く同じものに違う方略の名前をつけていたり。生徒なんかは時々自分でネーミングしている、と先生もおっしゃっていました。

そうなると読解方略って無限に存在しているんじゃないか、と思ったわけです。

そこを脾臓さんは「機能」で分けていくといいんじゃないか、とおっしゃっていて、これも非常に面白い考え方で、そうすると数が減って認識しやすくなるかもと思いつつ、機能となるとまた抽象度が上がって、実際に生徒が本当に使えるのかな、という疑問も湧いてきました。

そんなこんなでいろいろ考えていると、だんだんよくわからなくなってくるんですよね。

それにしても、次期学習指導要領の審議中の途中経過報告を見ると、読解方略を学年配当表みたいな感じにしようとしているようなんです。

それを見ながら、こんなのできるのかな、と私は思っていました。

多分、無限大にある読解方略をもっと代表的なものに絞って、この学年ではこの技を身につけさせよう、という学年配当表みたいなものが作られるんだと思います。

専門の方、有識者の方に協議してもらって、汎用的かつ機能的な系統表が作られていくとは思うんですが、実際にいろんな生徒を担当していくと、たとえば付属の学校の生徒なら、中1なのにもう高校2、3年生ぐらいの力があったりするわけですよね。

そうなると、高校2、3年生に配当されるはずの読解スキルを、中1の時点でもう分かっていたりする。

生徒の実態によってこれだけ能力の格差が激しい状況の中で、その配当表がどういう位置づけで授業現場に活用されるようになるのか、ちょっとイメージが湧かない、というのが正直なところです。

とはいえ、んばさんと脾臓さんのこの読解方略についての実践は、次期学習指導要領の新しい姿に非常に役立つ、先進的な研究・実践活動であると思っています。

読解の方略を身につければ読みを深めていける、そういう機能を身につけて、生徒もより良い、より高いレベルの読みに導かれる可能性を感じるので、若い方には、時代の流れに対する鋭さで、ぜひこの方面の研究を深め、先陣を切っていただきたいと思っています。

技を身につけて、どんな人間に育てるのか

それにしても、この回で問われていたのは、読解方略=技を身につけて、どういう人間に育てるのか、ということだったと思うんです。

技だけ身につけて、ゲームのように文章を読解していく生徒、というのも、極端な話、ありはしないかと思うわけですね。

翻って、自分が生徒の立場だったらどう思うか。

私だったら、文章を読むモチベーションというのは、たまたま出会った文章というのもあるけれど、なんか興味関心があったり、こんなことで苦労してるから悩みを解決してみたいとか、こういうことでもやもやしているから何か手がかりを得たいとか、そういう問題意識や興味関心で文章を手に取りますよね。

手に取って読みながら、「これに◯◯という方略が使われている」というような読み方は、あんまりしない。(するひともおられるけど)

私はまず自分が思考しながら、その文章に寄り添って、ああでもないこうでもない、そうなのか、そういうことなのか、と新しく揺さぶられたり、同意したり考え直したりしながら、文章の中に自分自身を没入させる。時には距離を取って分析してみたりもする。まずそれが、本当に文章を読む楽しみだと思うんですよね。

その後で、「うわ、これって実はこんな表現の工夫が使われていたのか」「こういう工夫がされていたのか」「これってこう捉えたら解像度が上がるんじゃないか」——そういう形で方略を意識し始めて、だんだん読みが深まると同時に、言葉というものの持つ魅力とか、偉大な働き、素晴らしい力に感動する。

それと共に、自分のものの見方・考え方が変わって、世界を見る目が変わって、より豊かに生きられる、幸せな気分になったり元気が出たりする。

それで生きていく、あるいは社会の問題を解決していく、仲間と共に困難を乗り越えるということにつながっていく——というのが、私自身の文章との向き合い方なんです。

そうなると、何のために文章を読むのかというところを抜きにしては、生徒は本気にならない、というのが私の疑問です。

本気にならない文章に向き合うということは、脳が活性化しないので、本当の意味での力がつかない、というのが、長く実践の場に立ってきた私の実感です。

スパイラルに、でも絞って

方略をどう転移させるか、については、私にもまだよくわかっていないんですが、んばさんがおっしゃっていたように、スパイラルにやっていくことなんでしょうね。

1回や2回では、たぶん読解方略って身につかないので、繰り返し繰り返ししながら、生徒の中でどんどん深まっていく、ということになると思います。これはもう、繰り返しやるしかないですよね。

ただ、あんなにたくさんある方略をスパイラルでやっていても効果が上がるのかな、と思って、転移していった生徒の典型例があったら教えてくださいと先生に質問したところ、答えてくださったのは——生徒がこれを面白いなと思った方略に着目して、その気になった方略をいろんな文章に当てはめながら考え、分析していくスタイルが一番転移した、ということでした。

やっぱり、自分にとって気になる方略を一つか二つ、生徒に持たせて極めていくことで、いろいろ読みが広がる、深まるということにつながる感じがしたので、私としては、読解方略はある程度絞る、という考え方に少し傾いたかな、と思います。

それから、読解方略が同僚の先生にどう取り入れられているか、という問題も話し合われました。たとえば中学1年生を自分が全学級持っているなら、学年で取り組みが進むと思うんですが、学年が違えば違うことをしている、ということになる。

あるいは横持ちの先生が違えば、こちらの先生は読解方略をやるけど、こちらの先生は違う方法で授業を組んでいる、ということになると、クラス替えが起こった次の年に、また1からやり直しになって、積み上げが崩れてしまう。

このことについて、脾臓さんは、「たどり着くところが共有されていれば、方法が違ってもいいんじゃないか」とおっしゃっていました。

この辺り、私もちょっとよくわからないんですが、技が知識・技能であるとするなら、結構、知識・技能を生徒に身につけさせないと思考力が深まるところに向かっていかないんじゃないかな、という図式が頭に浮かぶので、ちょっとそのあたりがモヤモヤしたまま、課題として残っています。

ベテランを迎え入れてくれる度量

本当にありがたいのは、めちゃくちゃキレキレな——私からしたら「若い」先生たちなんですけど、本人たちはもうみんな中堅くらいだと思っていると思います——先生たちが、国語の授業について真剣に考え、仲間と忌憚のない意見を言い合うようなコミュニティがあるということです。

そこに、なんだか申し訳なくて、私みたいなベテランで、なんかもう酸いも甘いも噛み分けてきたおばはん・・・・じゃなかったベテランの人が来たな、と煙たがられるんじゃないかと思っているんですが、それをちゃんと受け入れてくれる、この度量の広さ。これには感心します。

私が師事している世羅博昭先生の「広島水脈の会」という会があるんですが、先生は「ベテランも若手も関係なく、実践するという面ではみんな同じ立ち位置なんだから、遠慮なく物を言いなさいよ。」と大学生によく言うんですね。

先生のおっしゃる通りで、授業を考えるという点では、ベテランも若手もない。

みんなで真剣に授業について、国語教育について語り合うということに、忖度したり気を使ったりする場であってはならないと思うんです。

本当に、私、まだ勉強足りないんですよね。

今も実践しているけれど、悩んだり苦しんだり迷ったりしている。

悩んだり苦しんだり迷ったりが、ちょっと疲れるので、上手にストレスをいなすレジリエンスも身につけているから平気そうに見えるんですけど、私も苦しんだり悩んだりしています。

そこで、解決策を見つけるのは、生徒も若いから、そういう生徒に合っているのは、若い先生の持っているそういうセンスや感覚(——それはやっぱり私にとって学ばなくてはならないものだと思っているので)だと思うんです。そういう場にいさせてもらえるだけでも、大変にありがたいことです。感謝、感謝の会でした。

(追記:クラスルームを作ってデータなどを残していく、という話になっていたのに、私、入るのをすっかり忘れていました。この記事を機に、忘れないようにしたいと思います。)

※この記事はClaudeをアシスタントとして使用しました。けど、ほとんど、自分の言葉です。私の言い方を最大に活かせ!と指令しました。おまけにしゃべっている言葉をベースにしたのでちょっと乱れています。その乱れも混乱や迷い、もやもやを表現しているのでこのままでいきます。

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