
その日は、ICTを使って個別最適な学びに振り切ってみようと決めていました。生徒が生き生きと動き出す姿を想像していたのですが、教室の反応はどうもいまひとつでした。
途中で一斉授業に切り替えて、ずばっと発問をしました。その瞬間、生徒の目の色が変わったのです。一人を指名しているだけなのに、教室にいる全員が考えている。その様子がはっきりと伝わってきました。
一斉授業でいいやん。そう思いました。
SNSのキラキラと、現場の白け
最近、SNSを見ていると、一斉授業が悪者のように扱われて、グループ学習や協働的な学び、自由進度学習が推奨されるという流れがあるように感じます。
私自身、その空気に無縁ではありませんでした。自由進度学習や個別最適な学び、協働的な学びが先進的で効果的な、かっこいい取り組みのように語られているので、ついそちら方面の実践力を鍛えなければと意識して取り組んできた面があります。
でも現実には、そうはいかない現場が数多くあります。現場の先生方の中には、この流れに若干白けていらっしゃる方もいるのではないでしょうか。
特に心理的安全性が確保できない、難しい教室実態の場合は、一斉授業や個別学習から始めて積み上げていかざるを得ないことがとても多い。というより、大半の教室はそういう実態ではないでしょうか。逆に一斉授業すら難しい場合には、個別最適な学びに大きく振り切る現場もあると思います。
そもそもグループ学習が苦痛だという生徒もいます。多様な学びの形態を用意して、できるだけ最適な状況を作っていくことを考えなければいけないのではないか。最近はそう思うようになりました。
「一斉授業しかできない」という環境
こうしたことをXでつぶやき、Facebookにも書いたところ、知人の先生からコメントをいただきました。
その先生は通信制高校に見学に行かれた際、「スクーリングでは心理的安全性を確保するために一斉授業の形をとる」と通信制の先生が説明されたそうです。
それを聞いたその先生は、「自分たちは一斉授業もグループワークもペアワークも個別学習も組み合わせてやれるけれど、一斉授業しかできないという環境は苦しい、工夫がいる」と感じた、という内容でした。
つまり、組み合わせて選べる環境にいる先生がいる一方で、一斉授業しか選べない環境もあるということです。
私自身、多様な教育現場で教えてきて本当に思うのは、一斉授業しか選べない環境、個別学習しか選べない環境は確実にあるということです。選べるか選べないかで、先生にやれることはまったく違ってきます。
一斉授業しかできない教室にいる先生は、やりたくてもできません。生徒の実態に合っていないから一斉授業を選んでいるのです。それをさも古いことのように言われるのは、少し筋違いではないでしょうか。
一斉授業しか選べない状況の中で心理的安全性を確保し、一斉授業で思考を促している。それは最善を尽くしている姿だと思うのです。
私自身も、SNS界隈でキラキラして見えるものに目を取られていました。もう少し足元を見なければいけないと、改めて思いました。
一斉授業を掘り下げてみる
ここからは、一斉授業そのものをもう少し掘り下げてみたいと思います。
ライブ感と連帯感
一斉授業の良さは、ライブ感のようなものだと思います。
個別最適な学びは本当に最適化していて効率的ですが、孤独になりがちです。一斉授業には、同じ時間に同じ問いに対してクラス全員のボルテージが上がっていく感覚があります。
特に、よく考えさせる問いが投げかけられたとき、教室にシーンとした緊張感が走ります。生徒の目がキラキラして、脳内がクルクルと回っている。これも個別最適な状態ではないでしょうか。そしてそれが全体として一つの大きな思考に向かっていく。
みんなでこの一つのテーマについて考えているという連帯感は、一斉授業でしか作れない心理的安全性の土台になるように思います。
人間関係を調整する負荷が軽くなる
グループワークは内容を深めることができますが、人間関係を調整しながら進めるという負荷が伴います。
コミュニケーションが苦手な子にとって、グループワークは内容に集中したくても、人間関係のほうに脳のリソースを奪われてしまう場になりがちです。
一斉授業は、先生というフィルターを通すことで人間関係の摩擦を最小にして、純粋に思考だけに没頭できる環境を提供している。そう考えることもできるのではないでしょうか。
もちろん、コミュニケーションが苦手な子がグループワークを通してその力を上げていく必要もあります。ただ、すべてをグループ学習にしなくても、ここは負荷を下げてやろうという選択をするのは授業者です。手持ちのカードが多ければ、いろいろな授業でいろいろな負荷を下げながら調整していくことができます。
先生の解釈との対話で思考が広がる
生徒同士だけで学ぶと、自分たちの興味の範囲だけで進んだり、知識が偏った状態のまま進んだり、想定の外に出られなくなったりすることがあります。
そこで先生が一斉授業の中で教科書の外の知識を共有したり、一見無関係に見える知識を持ち込んだり、自分の解釈にもとづく発問をしたりする。それによって生徒の思考が広がるというメリットがあると思うのです。
優れた一斉授業には、生徒の興味関心の枠を少し広げる働きがあります。先生の解釈を取り入れて先生がリードしていく場面が必要なときもあるし、それが授業の味付けにもなります。
グループワークは、ある種、尖った意見が出しにくく、平板な意見に落ち着いてしまうことがあります。尖った意見を自由に出せるほど心理的安全性の高いグループならいいのですが、周囲の人間関係を強く意識してしまう教室ではそうはいきません。そういう場合に、先生が一斉授業でちょっと尖った意見や深い解釈を提示するのは効果的だと思います。
沈黙していても、共に考えている
言葉を交わさなくても、隣の子がうんうんと頷いたり、鉛筆を走らせたりする気配があります。そこには相互作用があるのではないでしょうか。
発言していなくても、他者の存在によって自分の考えが深まっていくプロセスが踏めているなら、それは十分に協働的な学びと言えると思います。
話し合いという見える形にしなくても、空間を共有していることで思考が促されているのなら、それは対話的な学びになっている。私はそう思うようになりました。
形ではなく、思考の時間
一斉授業でも、みんなが考えていればそれは協働的な学びです。グループの形をとっていなくても、全員が一生懸命に考えているなら、話し合いが苦手な子にとってもやりやすい場になります。
逆に、自由進度学習やグループ学習の形をとっていても、自由進度が放任になっていたり、場は共にしていても思考は共にしていない状態になっていたりしたら、どれだけ最先端の取り組みを型として取り入れても、内実は伴っていないことになります。
つまり、形が問題なのではありません。限られた環境やハンディのある中で、いかに生徒が一生懸命に思考する時間を作り出しているか。そこが本質です。
当たり前と言えば当たり前のことを、今さらながら確認できたように思います。
一斉授業という安心感、ベースがあるからこそ、個別学習やグループ学習の存在意義も際立ちます。
新しいものを無理やり取り入れて、新しいからいいのだろうと自分に言い聞かせるような窮屈さからは、そろそろ解放されてもいいのではないでしょうか。
いろいろなやり方を選べる環境にあるなら、組み合わせていけばいい。選べない環境なら、生徒が考える時間をいかに最大化するかを考えればいい。
形ではなく、そこで生徒をいかに思考させるか。そこを忘れずにいたいと思います。
みなさんの教室では、いま何が選べて、何が選べないでしょうか。
※この記事はClaudeをアシスタントとして使用しました。
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