「隣に人がいるのに、書き込む意味はあるんですか」—生徒の一言が残した、デジタル活用への問い

ハイライト

夏目漱石の「こころ」を、掲示板で語り合わせようとしました。

結果は、内容の薄い一言が延々と続く、いわば荒れた掲示板でした。

「やあ、こんにちは、誰?」「誰か当ててごらん?」。

作品を深め合う段階には、まったく届きませんでした。

あれから20年以上、私は場所を変え、生徒を変え、何度も掲示板を授業に持ち込んできました。うまくいった回もあります。

そしてうまくいった回にこそ、いちばん鋭い問いを生徒から受け取りました。

今回は、その20年を最初から振り返ります。

https://youtu.be/5Kk5vaeUmHY

アクセス拒否の壁を、自分のサーバで越える

「授業用の掲示板を生成AIで作ってみた」。いつもお世話になっている笠原先生のVoicy第353回を聞いて、私は20年以上前のことを思い出しました。

当時、私は自分のホームページを開設したばかりでした。

そこで出会ったのが掲示板です。インターネット上にスレッドを立てて意見を交わす仕組みで、古くはBBSとも呼ばれていました。

書き込みが積み重なって議論の形になっていく様子を見ているうちに、これを国語の授業に持ち込めたら面白いのではないかと考えるようになりました。

しかし当時は一人一台端末などありません。

授業で使うには情報教室へ移動し、生徒がログインして書き込むことが前提になります。さらに学校のネットワークでは、レンタル掲示板のURLがアクセス拒否に設定されていました。

これは無理だと一度はあきらめかけたのですが、自分が借りているホームページ領域にCGIプログラムをインストールすれば、独自の掲示板を持てることに気づきました。

そのリンクを生徒に渡せば、学校のパソコンからでも弾かれずにたどり着けます。実際に確認が取れ、授業への投入が決まりました。

「やあ、こんにちは、誰?」が延々と続く

最初の実践は、夏目漱石の「こころ」でした。

一つの作品にさまざまな視点から意見を寄せてもらう。それが掲示板を使う目的でした。

ところが生徒は、掲示板そのものに引き込まれてしまいました。

「こころ」を考えることよりも、友達とその場ですぐにやりとりができるという仕組みの魅力が先に立ちます。

「やあ、こんにちは、誰?」「誰か当ててごらん?」。

内容の薄い一言が延々と続き、いわば荒れた掲示板になりました。

作品を本質的に深め合う段階には、まったく届きませんでした。ただただ、友達とのやりとりが楽しいという状態です。

今になって思えば、いきなり本番に投入したのが間違いでした。

まず試用の時間を取って使い方に慣れさせ、やってはいけないことやマナーを自分たちで考えさせる。

そのリテラシーの時間を、私は飛ばしたのです。

スマートフォンはまだなく、生徒はガラケーのメールやショートメッセージに慣れている程度でした。公の場で文字をやりとりする経験そのものが、まだなかったのです。

その後、何度か失敗を重ねて、ある程度は掲示板で意見交換ができるようになりました。

それでも痛感したのは、このやりとりにはその場で読んで書くという、かなり高い力が要るということです。

考えたことをすぐキーボードに載せる力が、まず未熟でした。

そして、その未熟な記述を未熟なまま読み、行間や余白を解釈して応答しなければなりません。

未熟なアウトプットに未熟な理解で応じ合う、本当に薄いやりとりになりました。

鉛筆を手に持ってじっくり書くことに慣れた生徒には、時間をかけて記述したものを交換し合う方が合っていたのではないか。今ではそう感じています。

隣に人がいるのに

次に掲示板を持ち込んだのは、国立大学附属校に勤めていた頃です。

この時もまだ一人一台ではなく、情報教室へ移動する形でした。

やはり物珍しさを楽しむ生徒は一定数いました。

ただ、ひとしきり楽しんだあとは、早々に本質的なやりとりへと進んでいきます。

黙々と自分の意見を書き、友達の意見を読み、そこに返信をつけていく。

対話が成立しました。考えたことをすぐに一定の質の文章にできる力を、生徒がもともと持っていたからです。

この時の成果の多くは、その力に支えられていました。

そして授業の終わりに、ある賢い女子生徒から鋭い指摘を受けました。

「先生、隣に人がいるのに話し合わずに黙々と掲示板に書き込むというのは、そもそも意味があるんですか」。

実はこの疑問は、私自身が授業中に考え始めていたことでもありました。

だからこそ、率直に言ってきてくれたことがありがたかったです。

生徒もそう思っていたのか、と。

話す・聞く・読む・書くの力がある程度高い生徒にとっては、情報教室に集まって掲示板に書き込むよりも、目の前の友達と実際に対話する方が充実したやりとりになる場合がある。

それでも掲示板でのやりとりにも意味はある。

その両方を、手応えとして持ち帰ることになりました。

20年後、掲示板は数分で立つ

技術の面では、ずいぶん変わりました。

かつてはCGIプログラムをインストールするという技術的ハードルがありましたが、今は生成AIを使ったバイブコーディングで、掲示板そのものを作ることができます。

笠原先生の取り組みに触れて、時代は確実に流れているのだと感じました。

一方で、数々の試行錯誤から見えてきたことは、意外なほど単純です。

やってみなければわからないということ。

目的に合った環境が整えられているかということ。

そして、そのやりとりの形式に生徒自身が慣れているかどうかということ。

もし一人一台端末があれば、授業時間外にもじっくり考えてアウトプットし、それをまた読んでインプットし、さらにアウトプットする往復ができたはずです。

20年以上前の取り組みでは、書き込んでやりとりするという行為自体が生徒にとって刺激的すぎて、アドレナリンが出るほど新鮮で、本来の目的が吹き飛んでしまいました。

掲示板でのやりとりが授業の当たり前の形として定着していなかったことが、混乱を招いた要因の一つだったと思います。

これからも失敗を重ねながら試行錯誤を続けて、自分の手持ちカードを増やしていきたいと思っています。

今まさに掲示板を授業に取り入れようとしている先生方に、私の失敗が少しでも参考になれば嬉しいです。

道具は20年で驚くほど軽くなりましたが、問われているのは今も、目の前の生徒の実態を読む力です。

※この記事はClaudeをアシスタントとして使用しました。

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