✿ この記事で分かること
- ダン・ロススタインの問いづくり(QFT)の根底にある「民主主義の育成」
- 問いを完璧に構造化したら、授業が沈黙した——世羅博昭先生から伺った話
- 一読直後の問いと、読解後の問いの深さの違い
- 問いづくりを授業のどこに置くか


第99回の配信「問いは立てるものではなく、生まれるもの」からさらに一歩踏み込んで、「問いづくりを極めると何が起きるのか」というテーマでお話しします。
私自身、QFT(問いづくり手法)をワークショップで実践した際、あまりに「深い問い」が連発される光景に興奮したことがありました。でも、教育の現場はそんなに単純ではありません。
QFTの根底にある「民主主義の育成」
ダン・ロススタイン氏の「問いづくりの手法(QFT)」の根底には、実は「民主主義の育成」という非常にパワフルな考え方が流れています。
ルールはとてもユニークです。誰かが問いを出したとき、周りは「いいですね」といった評価をしてはいけない。ただ黙って、あるがままの問いを受け入れる。この「傾聴」の時間こそが、全ての人の意見を平等に扱い、マイノリティの声も大切にする土壌を育みます。
アメリカではこれが社会問題の解決に向かう力になりますが、私たち日本の国語教育が大切にしている「作品理解」の文脈とは少し趣が異なります。私たちは、この手法をどう自分たちの教室に落とし込むべきでしょうか。
問いを整理しすぎたら、教室に「沈黙」が
ここで、私が所属する研究会「広島水脈(みお)の会」のアドバイザー、世羅博昭先生から伺った、非常に示唆に富むエピソードをご紹介します。
ある時、生徒たちに徹底的に問いを出させ、それを分類・整理して、1枚の紙に見事に構造化させた実践があったそうです。オープン・クエスチョンかクローズドか、表現についてか背景についてか。完璧に整理し終え、さあ、いよいよ授業に入ろうとした瞬間、教室に起きたのは「沈黙」でした。生徒たちはすでに興味を失っていたのです。
なぜなら、問いを分類し、整理するプロセスそのものが、生徒たちにとっては最高の「読解」の時間になっていたからです。問いを整理しながら、彼らの中で答えは既に見つかり、探究の熱は冷めてしまっていた。皮肉なことに、問いづくりを極めすぎてしまったがゆえに、いざ読解という段階になると、授業としての盛り上がりが失われてしまったのです。
一読直後の問いと、読解後の問い
| 一読した直後に出る問い | 浅い |
|---|---|
| 全ての読解が終わった後で、生徒が自ら紡ぎ出す問い | 深く、熱量がある |
読解後の問いを出したときの、生徒たちのあの「やった感のある顔」を忘れることができません。「こんな問いが出たぞ!」と誇らしげに見せる得意顔。問いは単なる学習の道具ではなく、生徒自身の内側から溢れ出した、世界を解釈するための武器になっているのだと感じます。
問いづくりを、授業のどこに置くか
問いづくり一つとっても、使い方はバリエーション豊かです。授業の導入に置くのか、あるいは読解のゴールにするのか。その配置一つで、生徒の学びの景色はガラリと変わります。
✿ まとめ
- QFTの根底には、あるがままの問いを受け入れる「民主主義の育成」がある
- 問いを整理し尽くすと、それ自体が読解になり、授業の熱が冷めることがある
- 読解後に生徒が紡ぐ問いは、一読直後の問いより深く熱い
- 問いづくりを導入に置くか、ゴールに置くかで学びの景色が変わる
正解のない試行錯誤の連続ですが、だからこそ授業というものは、これほどまでに奥深く、面白いものなのだと改めて実感しています。皆さんの教室では、生徒たちがどんな顔で問いを立てていますか?
あわせて読みたい
- 振り返りを一回疑って、白紙に戻して見直してみませんか|空洞化の4つの要因と抜け出すヒント
- 光源氏はなぜ泣いたのか。それだけでよかったのに|コンピテンシーベースの罠と目標の二重構造論
- 「である」と「する」のカオスの中で|丸山眞男を軸にした単元の学会発表と質疑応答から学んだこと
この記事はNotebookLMによる文章作成を行いました。



コメント