

Podcastのハイライト
私自身、QFT(問いづくり手法)をワークショップで実践した際、あまりに「深い問い」が連発される光景に興奮したことがありました。
でも、教育の現場はそんなに単純ではありません。
ある高名な先生から伺った「問いを完璧に構造化し、整理し尽くした結果、読解の段階では生徒が興味を失い授業が盛り上がらなくなってしまった」という失敗談は、私にとって大きな衝撃でした。
問いを立てること自体が、実はもう読解の核心に触れる行為そのものだったのです。
生徒たちが自らの手で問いを生み出し、「こんな問いが出たぞ!」と誇らしげに見せる、あの「得意顔」。
その輝きを消さないために、私たち教師はどうあるべきか。
民主主義の育成という視点も交えながら、現場の生きた葛藤をお届けします。
Podcastの概要
皆さん、こんにちは。黒瀬直美です。今回は、第99回の配信「問いは立てるものではなく、生まれるもの」からさらに一歩踏み込んで「問いづくりを極めると何が起きるのか」というテーマで、補足的なお話をさせていただきます。
まず、前回ご紹介したダン・ロススタイン氏の「問いづくりの手法(QFT)」について、大切な視点を再確認しておきたいと思います。
この手法の根底には、実は「民主主義の育成」という非常にパワフルな考え方が流れています。
ルールはとてもユニークです。誰かが問いを出したとき、周りは「いいですね」といった評価をしてはいけない。
ただ黙って、あるがままの問いを受け入れる。
この「傾聴」の時間こそが、全ての人の意見を平等に扱い、マイノリティの声も大切にする土壌を育みます。
アメリカではこれが社会問題の解決に向かう力になりますが、私たち日本の国語教育が大切にしている「作品理解」の文脈とは少し趣が異なります。
私たちは、この手法をどう自分たちの教室に落とし込むべきでしょうか。
ここで、私が所属する研究会「広島水脈(みお)の会」のアドバイザー、世羅博昭先生から伺った、非常に示唆に富むエピソードをご紹介します。
ある時、生徒たちに徹底的に問いを出させ、それを分類・整理して、1枚の紙に見事に構造化させた実践があったそうです。
オープン・クエスチョンかクローズドか、表現についてか背景についてか。完璧に整理し終え、さあ、いよいよ授業に入ろうとした瞬間、教室に起きたのは「沈黙」でした。
生徒たちはすでに興味を失っていたのです。
なぜなら、問いを分類し、整理するプロセスそのものが、生徒たちにとっては最高の「読解」の時間になっていたからです。
問いを整理しながら、彼らの中で答えは既に見つかり、探究の熱は冷めてしまっていた。
皮肉なことに、問いづくりを極めすぎてしまったがゆえに、いざ読解という段階になると、授業としての盛り上がりが失われてしまったのです。
別の方法として、私自身の経験では、一読した直後に出る問いと、全ての読解が終わった後で生徒が自ら紡ぎ出す問いでは、その深さと「熱量」が全く違いました。
最初の問いは浅く、読解後の問いは深かったのです。
読解後の問いを出したときの、生徒たちのあの「やった感のある顔」を忘れることができません。
問いは単なる学習の道具ではなく、生徒自身の内側から溢れ出した、世界を解釈するための武器になっているのだと感じます。
問いづくり一つとっても、使い方はバリエーション豊かです。
授業の導入に置くのか、あるいは読解のゴールにするのか。
その配置一つで、生徒の学びの景色はガラリと変わります。
正解のない試行錯誤の連続ですが、だからこそ授業というものは、これほどまでに奥深く、面白いものなのだと改めて実感しています。
皆さんの教室では、生徒たちがどんな顔で問いを立てていますか?
この記事はNotebookLMによる文章作成を行いました。



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