
はじめに(私の実感として)
ここは、私自身の意見として聞いてください。
振り返りというシステムを、文部科学省から「こうしましょう」と言われたからといって、無批判にそのまま現場に展開してしまうと、思わぬ落とし穴にはまるのではないか――そういう危険性を感じてきました。
良い理念だからこそ、疑わずに受け入れてしまいやすい。
でも一度立ち止まって、白紙に戻して見直してみることも必要なんじゃないかと思うのです。
例えば、「主体性を評価しようとすると、かえって主体性は失われる」といったことはみなさんも現場で感じておられるのではないでしょうか。
これは学習指導要領で「主体的に学習に取り組む態度」が観点別評価に導入されて以来、現場の多くの教員が直面しているポーズとしての主体性の問題です。
このように、私たちは無批判にシステムを受け入れるのではなく、常に点検、批判、考察していかねばなりません。
批判的思考力を育成しようとする授業者自身が批判的思考を失ってはならないと思うのです。
以下、GeminiのDeepResearchの結果をClaudeに渡して、私の意見をちょっと足して、私の語り風にしてもらいました。時短を図りましたのでご容赦ください(汗。つまりAIが調査してくれたことです。
私の振り返りについての記事
https://www.naomi-sensei.com/n/nb6ef80a16987
https://youtu.be/wkprQNwIHuU?si=UMalAY4UpM1_Vr5x
https://www.naomi-sensei.com/n/nea0682b1fd0f
はじめに
授業の最後に「今日の振り返りを書きましょう」。
もうすっかりお馴染みの光景ですよね。でも、その紙に並ぶのは「〜がわかりました」「次は〜したいです」という、どこかで見たような言葉ばかりになっていませんか?
振り返りは、いつ、なぜ、こんなに「型」にはまってしまったのか。
歴史をたどりながら、その空洞化の正体と、抜け出すための小さなヒントを考えてみました。
「振り返り」って、そもそもいつからあったの?
振り返りのルーツをたどると、大正時代のデューイの思想や、戦後まもない1947年の学習指導要領(試案)にまでさかのぼります。
当時すでに「子ども自身が自分の学習の到達点に気づき、これからの学び方を考える」ことの大切さが示されていたんですね。
でもその後の道のりは、決して一本道ではありませんでした。
昭和30年代には「詰め込み教育」の波がやってきて、算数に「集合」が入ってくるような時代には、立ち止まって振り返る余裕なんてほとんどなかったはずです。
そこから「ゆとり」を経て、「生きる力」や「総合的な学習の時間」が生まれ、2017年の改訂でとうとう「振り返り」が授業づくりの正式な柱になりました。
今では小学校で95%、中学校で93.6%、高校でも82.3%の先生が、日常的に振り返りの時間を設けているそうです。
活動そのものは、もうすっかり教室の当たり前になったと言えそうです。
振り返りを支えている理論たち
振り返りという活動は、実はいろいろな学問領域から支持を受けています。
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メタ認知理論(フラベル):自分が何をわかっていて、どこでつまずいているのかを、自分自身で監視し、コントロールする力
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自己調整学習理論(ジマーマン):目標を立て、実行し、振り返る……というサイクルを自分の力で回していく力
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省察的実践論(ショーン):不確実な現場で立ち止まり、考えを更新し続ける専門職としてのあり方
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反省的思考論(デューイ):「なんだか腑に落ちない」という感情のざわつきから、問いが立ち上がっていく過程
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経験学習モデル(コルブ)、ナラティブラーニング(ブルーナー):経験を振り返り、物語として意味づけ直すことで、学びを自分のものにしていくプロセス
難しい言葉が並びますが、根っこにあるのは同じこと。
「自分の学びを、自分の言葉で見つめ直す」。それが振り返りの本来の姿なんですよね。
だけど、なぜ「空洞化」してしまうのか
これだけ理論的にも裏づけのある活動なのに、現場では「形だけ」になってしまうことが少なくありません。
その背景には、いくつかの構造的な要因がありそうです。
① 手順さえ踏めば深まった気になってしまう
「見通し」と「振り返り」というフォーマットさえ埋めれば、なんとなく深く考えたような気になってしまう。
でも実際には、思考はそれほど深まっていないことも多いんですよね。
ワークシートの空欄を埋めるための言葉が、「〜がわかった」「次は〜したい」というテンプレートに収束していってしまいます。
②ルーチン化によって形式化してしまう
毎時間の振り返りが「振り返り疲れ」を生み、内容よりも形式を整えることにシフトしてしまいます。
③ 感情や葛藤が排除されてしまう
本来、振り返りを駆動するのは「なんだかモヤモヤする」「思い通りにいかなかった」という感情の揺らぎのはずです。
でも「ねらい」に沿った模範的な答えばかりが求められると、そうした本音の部分がそぎ落とされ、無難な感想文だけが残ってしまいます。
④ 評価と結びつくことで「忖度」が生まれる
振り返りシートが成績評価に直結するようになると、子どもたちは「先生が喜びそうな答え」を敏感に察知して書くようになります。
「友達の意見を聞いて多角的に考えられました」といった、どこか聞き覚えのある優等生的な言葉が並ぶのは、そのためかもしれません。
空洞化から抜け出すために、できること
じゃあどうすればいいのか。いくつかのヒントを考えてみました。
時間設計を見直す
毎時間5分の振り返りをルーティン化するより、単元の節目や、対話が大きく動いた場面で「15〜20分」のまとまった時間をとる方が、じっくり考えられます。問いかけも「今日の感想を書きましょう」ではなく、「前回と今回で一番矛盾していると感じたのはどこ?」のように、焦点を絞った方が、思考が動き出しやすくなります。
※これは私がSNSで盛んに発信しているところです。
評価から一度切り離してみる
子どもが自分の「わからなさ」や「失敗」を隠さずに書けるようにするには、振り返りと評価を切り離すことが大切です。
見えるのは評定ではなく、次につながる「問い返し」の言葉だけ、という環境をつくれると、子どもたちも安心して本音を書けるようになります。
「誰が悪いか」ではなく「何が足りなかったか」を考える
うまくいかなかったことを「本人のがんばり不足」で片づけるのではなく、「どんな情報が足りなかったのか」「進め方のどこに無理があったのか」という視点で振り返る。
この転換だけで、振り返りは「反省文」から「次に活かせる知恵」へと変わっていきます。
単元の終わりに、振り返りを振り返る
毎回の振り返りを書きっぱなしにせず、単元の終盤で見返してみる。
最初にどんな問いや予想を立てて、どんな迷いを経て、今どんな考えにたどり着いたのか。
時系列でつなげてみると、断片的だった気づきが、一つの物語として立ち上がってきます。
※これは私が新米教員時代から「まとめ」としてやってました。
おわりに
振り返りが教室にこれだけ根づいたこと自体は、大きな教育改革の成果だったと思います。
でも、根づいたからこそ、いつのまにか「型」だけが残ってしまう。そんな皮肉な現象が、今、あちこちの教室で起きているのかもしれません。
振り返りを「感想を書く時間」や「評価のための作業」にしてしまうのではなく、子どもの中に湧き上がる小さなモヤモヤや引っかかりを、もう一度すくい上げる時間として捉え直せたら。
そこから、本当の意味での「自分の学びを語る言葉」が育っていくのではないかなと思っています。
※この記事はClaudeをアシスタントとして使用しました。
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