光源氏はなぜ泣いたのか。それだけでよかったのに。~コンピテンシーベースの罠~

はじめに

この記事はAIと対話したものをClaudeで整えてもらったものです。内容は私の着想や考えが入っていますが、文章はAIはつづっています。

あと、世羅博昭氏の目標の二重構造化論に学ぶところが多い意見となっており、たぶん、多くの自治体研修でなされている方向とは違うかもしれませんので、そのあたりご理解ください。

車の中で、ふと立ち止まりました

移動中、AIを相手にひとり議論をしていました。

テーマは、文部科学省が掲げる「コンテンツベースからコンピテンシーベースへ」という方針転換についてです。

以下、その思考の軌跡を整理します。

コンピテンシーベースとコンテンツベース、何が違うのか

コンテンツベースとは、知識や情報、文法や内容そのものの習得に価値を置く考え方です。

一方コンピテンシーベースとは、特定のスキルや行動特性——実際に何ができるか、期待される行動を発揮できるか——を評価・育成の軸に据える考え方です。

国語教育は今、この軸足を後者へ移すよう求められています。

目標は「知識を覚えること」から、「説明力」「論理的思考力」「自己表現力」といった具体的スキルの育成へとシフトしつつあります。

問題は「生徒に何を掲げるか」です

ここで見落とされがちな論点があります。

教師が指導設計上コンピテンシーベースで考えること自体は、なんら問題ありません。

問題は、そのコンピテンシーをそのまま生徒への目標として提示してしまうことです。

「説明力を身につけよう」「論理的思考力を鍛えよう」——こう黒板に書かれた瞬間、生徒にとってそれは抽象的で自分ごとになりません。

むしろ、生徒の思考力を深め主体性を喚起するのは、コンテンツそのものが持つ「心を揺さぶる力」との出会いのはずです。

スキルの習得を目標に掲げることは、学びを浅くし、主体性を奪う方向に働きかねません。

つまりここには、政策としての方向性(コンピテンシーベースへ)と、現場での学びの質(コンテンツとの深い出会いによる主体性の喚起)との間に、構造的な矛盾が存在します。

世羅博昭氏の「目標の二重構造論」

この矛盾を解く鍵として、世羅博昭が提唱する目標の二重構造論があります。

これは、教師の目標と生徒の目標は本来二重構造になっている、という考え方です。

教師はコンピテンシー(育てたい力)を指導設計の軸として持ちながら、生徒に対してはコンテンツそのものへの問い——自分ごととして意味づけられる問い——を投げかけます。

この二層が重なり合うことで、初めて深い学びと主体性が両立します。

文部科学省の「コンテンツベースからコンピテンシーベースへ」というスローガンを、そのまま生徒への目標として横流しする・・・これには疑問を持たざるを得ません。

現場で実際に何が起きているか ―『源氏物語』若紫の場面から

これは理論だけの話ではありません。

実際に、あるエキスパート教員(指導教諭)の研究授業を見ました。

題材は『源氏物語』若紫。光源氏が涙を流す、あの有名な場面です。

生徒が素朴に抱く疑問は、ただひとつです。「光源氏はなぜ泣いたのだろう」。

この問い自体が、生徒を主体的にテクストへ向かわせる十分な力を持っています。

ところが、その授業で黒板に掲げられた目標は「光源氏の心理を分析しよう」でした。

素朴な疑問を出発点にするのではなく、最初から分析という「型」にはめてしまっています。

これはコンピテンシー(分析力)を生徒目標として直接提示してしまった典型例であり、しかもそれが指導教諭という「模範」の立場で行われていました。

こうした授業は、決して例外ではありません。文部科学省の掲げる方針転換が実際の教室でどう展開されているかを示す具体例です。

なぜ広まるのでしょうか

理由は明快で、コンピテンシーベースの目標は短期的に成果が測りやすく、政策としても伝えやすいからです。

そこでは、思考力・深い理解・創造性といった、本来最も大切なはずのものが後回しにされてしまいます。

この評価の問題を解決する道の一つとして、ポートフォリオ評価——生徒の作品や振り返りを通してプロセスや成長を評価する方法——の研究が国内でも進められています。

ただしこれは教師側の負担や評価の公平性という課題を抱えており、何より入試に直結しない限り、成果を求められる現場には浸透しにくいのが実情です。

入試改革と評価改革が連動しない限り、コンテンツベースからコンピテンシーベースへの「ねじれ」は、構造的に解消されないままでしょう。

それでも、伝わりません

この問題意識をSNSで発信し続けていますが、正直なところ、支持はなかなか得られません。

研究会でこの矛盾を指摘すると、場がしんと静まり返ることもあります。

忙しい現場では、新しい方針や言葉をそのまま追いかけることで精一杯になりがちです。

だからこそ発信する側は、抽象的な理論としてではなく、身近な具体例や、その教員自身が得られる手応えと結びつけて語る必要があるのだと、あらためて感じています。

まとめ

文部科学省が掲げる「コンテンツベースからコンピテンシーベースへ」という方針は、それ自体が誤りなのではありません。

危ういのは、この方針を単純なスローガンとして生徒への目標にそのまま横流ししてしまう現場の運用です。

教師の目標はコンピテンシーベースでよいのです。

しかし生徒に投げかけるべきは、コンテンツそのものが持つ力——心を動かす問い——です。

この二重構造を欠いたまま「スキルを身につけよう」と黒板に書き続ける限り、国語教育の主体性は、静かに、しかし確実に失われていきます。

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