
はじめに
「宿題は虐待だ」——そう言い切った人がいました。
教育現場にいる私には、ちょっとした衝撃でした。でも、すぐに「なるほど」と思った自分もいました。
今日は、5年ほど前のあるイベントで出会ったその言葉と、それが今も私の中でぐるぐると続いていることを書いてみたいと思います。
一般市民のフリートークイベントで出会った言葉
5年ほど前、私は教員という身分を隠して、一般の方が集まる「教育をテーマにしたフリートークイベント」に参加しました。
企業勤めの方、小さなお子さんを連れた若いご夫婦、おじいちゃんおばあちゃん……20人ほどが集まって、今の日本の教育の問題点を語り合う場でした。
普段、教育現場にいると、問題の切り口がどうしても似たり寄ったりになってしまいます。でもそこで聞いた意見は、私にとって本当に新鮮でした。
中でも、海外勤務から帰国されたお父さんの言葉が忘れられません。
中でも、海外勤務から帰国されたお父さんの言葉が忘れられません。
「日本では宿題がたくさん出るでしょう。あれは、虐待ですよ。」
なぜ「虐待」なのか
その方の言葉を要約するとこうなります。
学校が終わったら、それは個人の自由な時間のはず。その時間を侵食するような課題を課すことは、人権の侵害に他ならない。
海外では宿題がほとんど出ない国も多くあります。その環境で子ども時代を過ごしてきた方の目には、日本の「毎日の本読み・計算ドリル・保護者チェック」という文化が、まったく違って見えるのでしょう。
私はこの言葉に「なるほど」と思いつつも、正直、複雑な気持ちでした。宿題は子どもの成長のため、学力を積み上げるためと信じて出してきたのですから。
「宿題は美徳」が生む、別の問題
ここで私が考えたのは、宿題だけの話じゃないということです。
個人の自由な時間を侵食する行為が「美徳」とされる感覚——これ、どこかで見たことありませんか?
そう、時間外勤務を美徳とする職場文化とそっくりです。
休日も仕事に費やすことが「素晴らしい」とされ、ブラックな働き方が再生産されていきます。子どもの頃から「自由な時間に課題をこなすことが正しい」と刷り込まれていたとしたら……その文化の根っこは、もしかしたら学校の宿題にあるのかもしれません。
答えは出ないけれど、問い続けたい
「宿題は虐待か」——この問いに、私はまだ答えを出していません。
宿題なしで学力をつける方法は本当にないのか。宿題は正義なのか、それとも虐待なのか。
でも、この問いを手放さないでいることが大切だと思っています。
現場の常識を、外の視点から批判的に見つめ直すこと。それができる機会がなければ、私はただ「当たり前」を繰り返すだけの教員になっていたかもしれません。
あのフリートークイベントに参加して、本当に良かったと思います。
#宿題 #教育を考える #国語教員 #学校の常識を問う #子どもの権利



コメント